亀おじさんについて僕が知るすべて
僕が小学校の高学年に上がった頃、父が水槽でスッポンを飼い始めた。近所の小汚い川でフナやコイなどの駄魚を 釣っていたところ、ちょうど竿を上げた時にスッポンの脇腹に針が引っ掛かり、釣り上げる事が出来たのだ。
こうして我が家にスッポンがやってきた訳だが、それは愛玩を目的とした飼育ではなく、美味しい鍋の食材を新鮮に 保管するという意味合いが強かった。どれくらい太らせてから食べようかな?そんなわくわくする想像を前菜に、 水槽内を泳ぐメインディッシュへ熱い視線を注いでいた訳だ。
結局、「情が移った」という人道的な理由から、鍋パーティーの開催は見送られた。残念ではあったが、その鍋を 「食べなかった自分」と、可能性の向こうにいる「食べた自分」では、少し人間性に違いが出てくるような気もするので、それで良かったのかもしれない。
そんな人間の事情など、当のスッポンは知る由もなく、ただ食ったりジタバタと不格好に泳いだり、水面に首を伸ばして空気を吸ったりしていた。
地元を離れ、上京してからは、たまに里帰りした時に見て「そう言えばこんなんいたな」と思う程度の存在でしかなく、そのまま数年が過ぎた。
東京での生活を終え、地元へと帰ってきた時、スッポンの姿はなく、空っぽの水槽が残されているだけだった。母に聞くと「亀おじさんにあげたのよ。たくさん亀を飼っているおじさんで、その人に引き取ってもらったの」と言う。
そんなおぼっちゃまくんみたいなおじさんがいるなら会ってみたい気はしたが、生き餌として近所の川でザリガニを獲る作業から解放された事が嬉しく「それはよかったね」と納得したのだった。
しかし奇妙な事に、数年後に「昔飼ってたスッポン元気かな?亀おじさんに、ちゃんと育ててもらってるかな」と母に言ってみたところ「はぁ?亀おじさんって誰?」という衝撃的な返答をされた。還暦を迎えた母だが、記憶力はそれほど衰えた様子もないというのに。数年前に自分で言ったではないか。「スッポンは亀おじさんにあげた」と!
今となってはスッポンの消息は確認のしようがない。少なくとも10年以上飼育した者として、この星のどこかで亀おじさんとたくさんの亀たちと、元気に泳いでいて欲しい。