「日本人とオオカミ 世界でも特異なその関係と歴史」感想と考察
1905年、最後の1匹が死に、絶滅したと言われているニホンオオカミ。
日本人とオオカミとの関係は、お隣の中国やヨーロッパとは異なる、極めて独特なものがありました。
この本「日本人とオオカミ 世界でも特異なその関係と歴史」は、日本人とオオカミとの独特の関係性にスポットを当てたものです。
著者の栗栖健さんは、毎日新聞の記者として、ニホンオオカミと実際に遭遇したり、より上の世代からオオカミについて聞いていた古老たちに取材をして、ニホンオオカミについての貴重な証言、伝承を収集していました。
それらの貴重な証言はこの本の第三部に「オオカミがいたころ」としてまとめられていて、恐ろしいながらも血肉の通ったオオカミの存在を感じる事ができます。
日本の山野に確かに生きていたニホンオオカミの存在を、生き生きとしたエピソードと共に感じられて、「オオカミのいた日本」を仮想体験出来る。
そんな、他では味わえない魅力が、この本にはあります。
この記事では「日本人とオオカミ」の中で、特に印象深かったエピソードと見所を、感想を交えて紹介していきたいと思います。
目次
日本人とオオカミ 中国・ヨーロッパと日本の違い
「日本人とオオカミ」が指摘する、世界でも独特な日本人とオオカミとの関係。
それは恐れと畏敬、信仰心、親しみの入り混じった複雑なものです。
お隣の中国では家畜に害をなすオオカミを「餓狼」と呼び、忌み嫌っていました。
ヨーロッパでも、昔話「あかずきんちゃん」で描かれるような、狡猾で凶暴、貪欲な害獣としてのオオカミが基本的なイメージです。
その差はどこから来たのでしょうか?
「日本人とオオカミ」では、その理由は日本独特の気候と風土、それによって生まれた日本独自の農業に、その原因があると論じています。
日本人とオオカミ 食用家畜を持たなかった弥生時代の農業
日本では弥生時代に稲作が伝わり、全国に伝播しましたが、当時の日本の農業は、そのルーツである中国では盛んだった食肉用の家畜(ブタ・ウシ・ヒツジなど)を持ちませんでした。これは世界の農業の中でも極めて珍しい事でした。
原因としては「日本人とオオカミ」の中でもいくつか挙げられていますが、一つは日本は山地や森が多く、家畜の餌の供給源である草原を維持するためには人の労力がかかります。
広大な平原を持つ他の地域に比べて、家畜を大量に養う事を難しくしています。
また、日本への農業の伝来は、中国から朝鮮半島南部を経て伝わったという説が有力ですが、朝鮮半島南部では、食用家畜を持たなかった事も分かっています。
その後、日本でも農業に家畜を導入していく事になりますが、それは他国の規模に比べれば小さいものでした。
多くの家畜を持たなかった、世界的に見ると珍しい日本の農業。
シカやイノシシの農業被害に悩まされる農民にとって、それを狩ってくれるオオカミは、恐ろしいながらも頼もしい存在でした。
結果、日本人がオオカミに抱く感情は、家畜を襲うオオカミを害獣と見ていた他国とは違う、極めて独特なものになっていきました。
※オオカミを神の使いとして崇める神社があったり、畏敬の念を抱く事は、日本人にとってすごく特殊な事という感じはしないんですが、世界的に見ると非常に珍しいんですね。 とても印象深かったです。
日本人とオオカミ 人の近くを好んだシカ・イノシシと、それを狙った狼
シカやイノシシなどの野生動物は、何となく深い山奥にいるんじゃないか…という印象があるんですが、実は本当の山奥よりも、人の手の入った草地(里山)を好む傾向があります。
焼畑などをする地域では、焼け跡から生える草を求めて、シカなどの動物が集まります。
そして、それを狙うオオカミもまた、人の住む地域の周辺に住み、人に依存していました。
江戸時代末の博物学者・黒田伴存は、著書「大台山記」に「狼は深山ゆゑになし」(ゆえになし)と書いています。
日本人とオオカミ 貴族と農民の意識の違い
「日本人とオオカミ」が指摘する、日本人とオオカミの関係性の重要なポイントとして
「農民と貴族の間で異なる、オオカミ観の二重構造」があります。
シカ・イノシシを退治してくれるオオカミに親しみを感じていた農民と、直接その恩恵に預かる事のない貴族たちのオオカミ観は異なっていました。
中国の知識層と交流のあった貴族たちは、中国のオオカミ観に影響を受けていましたが、実際に遭遇する機会も少なく、直接的な利害関係の無かったためか、貴族達はオオカミに対しては無関心だったようです。
「万葉集」にはオオカミが由来になった地名は出てきますが、オオカミそのものを題材にした句はありません。
農作物を狙うシカ・イノシシを退治してくれるオオカミに親しみを抱いていた農民と、
中国の知識層と交流し、彼らの価値観に影響を受け、オオカミに対しては無関心だった貴族層。
日本人のオオカミ観は、この二重構造をベースに、時代と共に変化していく事になります。
日本人とオオカミ 狼を崇拝した渡来系氏族・秦氏
「日本人とオオカミ」では、狼を崇拝した渡来系の有力氏族「秦氏」について述べています。
「古事記」には、応神天皇の御代に、朝鮮半島から秦氏の祖先が渡ってきたとあります。
この秦氏の一人、秦大津父がオオカミを「貴き神」と呼ぶ話が「日本書紀」に収められている事から、秦氏はオオカミを崇拝する一族だったと考えられています。
秦氏の拠点だった京都盆地の北西部はオオカミ信仰が盛んな地域で、裏を返すとシカ・イノシシによる獣害がひどい地域でした。
秦氏は養蚕を得意としたと伝えられ、桑園を開いていました。農業も営んでいたと考えるのが自然です。
オオカミ信仰する事になったのも、自然な流れのように感じます。
稲荷神社のお稲荷さんはオオカミだった?
狐の石像が祭られている稲荷神社の開祖は、秦氏だと言われています。「日本人とオオカミ」では「稲荷神社 = キツネ」という、誰も信じて疑わなかった構図にも、鋭く切り込みます。
稲作、農耕の神を祀る稲荷神社。
そこの主神としてふさわしいのは、キツネなのか?
田畑を荒らすシカやイノシシを狩る力を持ったオオカミこそが、ふさわしいのではないか? と。
本来は「農業の神 = オオカミ」だったのが、時代と共に意味が失われたり、大々的にオオカミを崇拝する事の難しさから「キツネ」に姿を変えて、今日に伝えられているのかも知れません。
日本人とオオカミ 眞神原 地名に残る狼
古来、狼は「眞神」とも呼ばれ、この名を冠した地名「眞神原」が「日本書紀」に登場します。「万葉集」にはオオカミそのものについての句はありませんが、この「眞神原」を詠んだ句が収録されています。
「かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神が原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定めたまひて」
柿本人麻呂
「眞神原」は、現在の奈良県明日香村飛鳥、岡あたりと言われています。
日本人とオオカミ 狼は戦争が大好き!?
オオカミと戦争。一見、何の関係も無さそうな組み合わせですが、実はオオカミと戦争には、不気味な相間関係がある事を「日本人とオオカミ」は指摘しています。
ロシアの動物学者、ヴィタリー・ビアンキの小説「オオカミおじさん」から引用された一節が「日本人とオオカミ」で紹介されています。
「ごしょうちのように戦争がありましたが、オオカミは戦争ってやつが大すきでね、あれ以降、あちらこちらでやたらとふえているんですよ」
樹下節訳「ビアンキ動物記3」理論社
オオカミが土葬された人の遺骸を墓から掘り起こして食べたという記録は、日本にも数多く残っています。
そして人間のような大型の動物が、大量に打ち捨てられるような状況は、戦争でもなければありえません。
とても不気味な話ですが、戦争はオオカミにとっては苦労せずに多くの食料を手に入れられる、またとない機会だったのでしょう…。
日本人とオオカミ 半上村の襲撃事件
「日本人とオオカミ」に紹介されていた話の中で、一番衝撃的とも言えるのが、半上村で起きたオオカミ襲撃事件です。半上村は、現在の鳥取県日野郡江府町武庫の一部です。
天明三年(1783年)、四国遍路に向かっていた7人の順礼者が、山陰地方から中国山地を抜ける道の途中、半上村のお堂を一夜の宿としていたところ、オオカミの襲撃に遭ったのです。
この7人、それぞれ故郷も違う人たちの集まりだったようですが、旅の途中で知り合い、行動を供にしていました。
7人の顔ぶれは、
長野出身の44歳の市助と妻む免(むめ)、息子亀吉7歳、娘いと4歳。
広島出身のはつ54歳。
やはり広島出身の道心者、則心44歳と里よ36歳。
7人がお堂に横になっていたところ、午前三時ごろ、突如オオカミが強襲。
まず、市助が全身を噛みつかれ、半死半生に。
抵抗しようと立ち上がるも、何の武器も持っておらず、成すすべがありませんでした。
オオカミは続けて亀吉をお堂の外に引きずり出し殺害。
さらにお堂に戻って来たオオカミは、里よも外へ引きずり出して殺害。
傷が浅かったはつは朝になると村に助けを呼びにいき、半上村の人々はようやく事態を知ったのでした。
この事件は地元の人々にも衝撃を与えたようで、200年以上前に起きたこの惨劇の事を語り継いでいました。
昭和55年、地元の男性が作者の取材に語ったところによると「50歳以上の人は、みな、おばあさんから、悪い事をすると、ふるいオオカミが来てとって喰う、と言われた事がある」そうです。
ニホンオオカミは、世界のオオカミの中でも体が小さく、シェパード犬程度のサイズしかありません。
それがたったの1匹で、7人連れの人間を襲い、その内2人を殺したというのは、かなり衝撃的な事のように思います。
しかしよく考えると、大陸のオオカミに比べて体は小さいとは言え、ニホンオオカミはシカやイノシシなど、厳しい自然の中で生きる野生動物を倒す事が出来たのですよね。
その力の凄まじさを感じさせる話だと思います。
夜陰に眼の光る事明星の如く
「オオカミと日本人」に出てくる、オオカミについての記述の中で、特に趣深い文章を紹介します。
「狼は画に写しても常の犬のごとし。
しかれども夜陰に眼の光る事明星の如く」
闇夜に浮かぶ、異様な眼光を放つオオカミの双眸。
強烈なイメージを掻き立てられる記述です。
豺狼 ドールと狼
「日本人とオオカミ」で取り上げられている、中国から伝わった「豺狼」という言葉。「豺」は東南アジアからシベリアまで分布するイヌ科の動物、ドールの事を指しています。
群で狩猟を行う肉食動物ですが、オオカミよりも森林性が強く、丸顔です。
ドール
Phone Credit : David V Raju
「狼」はもちろん、オオカミの事です。
本来、「豺」と「狼」は違う動物の事を指していましたが、日本にはドールがいなかったため、混乱が生じました。
国学者の中でも意見が割れたようで、原典に忠実に別種の生物であるとする人もいる中、「豺狼」という一種類の生き物の事で、オオカミの事を指しているに違いない。
という人もいました。
豺はやまいぬ、狼はオオカミで、日本の山には2種類の犬に似た動物がいると説く人もおり、この事が「やまいぬ」と「オオカミ」の混同、混乱の原因の一つになりました。
日本人とオオカミ 狼が化ける!? 昔話に登場する狼
ヨーロッパでは「赤ずきんちゃん」など有名な作品に登場するオオカミですが、日本のメジャーな昔話には登場していません。畏れと共に信仰される神の使いでもあったオオカミは、ずるがしこいキツネ、タヌキや憶病なウサギなど、昔話の中での立ち位置が明確な動物と違って、扱いづらい存在だったのかも知れません。
「日本人とオオカミ」では、オオカミが登場する日本の昔話について取り上げています。
どれもメジャーな作品ではありませんが、その分、新鮮な味わいがあります。
昔話「千匹狼」
ある僧が、日が暮れて人も少ないところを、知人の孫右衛門の家を目指して歩いていたところ、オオカミに遭遇。
オオカミの群れに囲まれた僧は高い木に登ってやり過ごそうとしたが、大きなオオカミが来て「我を肩車に上げよ」と言うと、オオカミたちは股に首を差し入れて高くしてきた。
僧に届きそうなほど高くなったので、小刀を抜いて一番上のオオカミを突くと、オオカミたちは崩れ落ち、散り散りになって逃げてしまった。
朝になって僧が孫右衛門の家に行くと、昨夜、妻が死んだという。
死体を見ると、大きなオオカミだった。
昔話「狼」(オオカミを妻にした男の話)
江戸の男が、奥州の松島を見に行く途中で道に迷い、山の中に入ると、貧しい家があった。中に入ると、老夫婦とその娘が住んでいた。娘は二十歳くらいで美しく、男は娘に惹かれ、妻として娶った。
三年後、父母の事が心配になった妻が、奥州に行って父母の様子を見たい。と言うので、男は妻と連れ立って、松島見物がてら、奥州に行く事にした。
その場所へ行き、家を探したものの、庵はあるが柱は倒れ、ずっと人は住んでいなかったように見えた。
よく見ると大きなオオカミの死体が、二匹重なって朽ちていた。
女は「我が父母はすでに人のために殺されてしまわれた、口惜しや」と言い、大きなオオカミに変化して夫に向かってきた。
夫は驚いて刀を抜いたが、オオカミに食い殺されてしまった。
日本人とオオカミ 正岡子規の俳句に登場する狼
土葬の文化のあった日本では、オオカミが墓を掘り返して新仏を食べた、という話が数多く残っています。
俳人・正岡子規もオオカミの墓荒らしについての俳句を残しています。
狼の墓掘り探す落葉哉
明治28年冬
「子規全集 第二巻」講談社